#520-じいちゃん-
POSTED:2015/08/24 CATEGORY:BLOGじいちゃんとお別れしてきました。
享年95歳。
大往生だったと思います。
子、孫、ひ孫が全員揃ってのお見送り。
久々に全員集合しました。
『楽しかった』という言葉は語弊があるかも知れませんが、『みんなで葬儀を作って、じいちゃんを送り出せた』という意味では、田舎ならではの貴重な3日間でした。
僕は、亡くなった当日は、大阪で仕事をしていたので、到着してからの事しかわかりませんが、
寝ずの番、火葬、お通夜、告別式、野辺送り、初七日・・・
と、僕自身、32年生きて来て、親族が亡くなったのは、初めての事で、全ての事が初体験でした。
毎晩飲み明かして、じいちゃんの思い出話したり、久々に話す従兄弟とも話ができたり。
凄く寂しい気持ちに変わりはないんやけど、『死ぬ』という事を本当の意味で実感できましたし、これもまた『生きる』事なんやな、と。
冷たくなったじいちゃんに触れて、自然と涙が溢れてきましたし、色んな想いが自分の中を駆け巡りました。
人は生まれて死にます。
これだけは全員に等しく。
でも、いろんな生き方があって、死に方がある。
死に方は生き方。
今回、じいちゃんの葬儀をみてそう感じました。
『徳治(とくじ)』の名に恥じない、徳のある生き方をしたからこそ、最後は、家族はもちろん、親戚、ご近所、みんなが涙と笑顔で送り出してくれたんやと思います。
『赤木』はとてつもない田舎です。
平均年齢が70歳を超えてるであろう、限界集落です。
学校もお店もありません。
自販機が数台あるぐらい。
最寄駅は車で30分掛かります。
僕が具体的に何かできるわけではないですが、この素晴らしい山や川、星空を子供にも伝え続けたいですし、僕にとっての田舎は赤木しかありません。
これからも、赤木に遊びに行き続けて、その度にじいちゃんを思い出して、また大阪での生活のエネルギー源にしたいと思います!!
じいちゃん、お疲れ様!
大正9年、赤木に生まれて、戦争では、シベリアで捕虜として収容され、凄絶な体験をしたでしょう。
戦争に関しては、全く話してくれませんでしたし、思い出したくもなかったんだと思います。
50年ぐらい前に赤木から大阪に出て来て、それから奈良に移り住んで。
僕にとっては奈良で畑をしてる頃のじいちゃんの印象が強いです。
冬でも真っ黒で、力こぶの大きなじいちゃん。
野菜は、じいちゃんが作ったものを食べるのが当たり前でした。
そんなじいちゃんも畑を辞める事になり、徐々に弱っていく姿を寂しく思っていました。
地黒ではないかと思ってたぐらい真っ黒な肌も、入退院を繰り返す度に、徐々に白くなって、細くなり・・・
病気をしたわけでもなく、まさに、老木が枯れていく様でした。
1年半ぐらい前に、赤木に帰って、再び、生まれた地で暮らす事になりました。
兄弟や、親戚、昔からの顔馴染み、みんなに囲まれて生活をする中で、じいちゃんも満足したんやろな。
今回も、子、孫、ひ孫が帰省中、しかも、みんなが帰るその日の朝に息を引き取りました。
じいちゃんの最後のワガママやったんかな。
まだ、帰らんとって、って。
僕も今年は、仕事の都合もあり、田舎に帰れない事を残念に思っていましたが、まさかこんな形で帰れる、とはね。
じいちゃんが気ぃ遣って、手荒な方法で呼んでくれたんかな。笑
じいちゃん、ホンマにありがとう。
多くを話すじいちゃんではなかったけど、カラオケが大好きで、アレンジが凄くキツい歌い方、でも、最後は、帳尻合わせる歌ももう聞けないんやね。
寂しいねぇ。
でも、順番やしね。
こうやって、みんな生きていくんやわ。
いつまでもじいちゃんの事を忘れる事はないでしょうし、僕もそんなじいちゃんになりたいなと思います。
これからも親戚仲良く、ワーワー言うて飲みながら、じいちゃんの話をするのが一番の供養やね。
誰かの記憶に残る限り、その人は生き続けます。
じいちゃん、ありがとう。バイバイ。
合掌